加減を知ることの意味

高度な技能を習得しようとした時、苦労するのはその繊細な感覚ではないでしょうか。

理学療法士として治療技術を学んでいる時も、形は同じようでも講師のような効果が出せないことがあります。大まかな形だけではなく、細部にコツというか要点があるわけです。力の入れ方にしても、効果を出したいと思うとつい力が入りがちになるのですが、実際には逆の考えが必要で、適度な量に加減することが大事になります。

料理についても「塩梅」という言葉があるように、味付けを濃くすれば美味しいわけではなく、さじ加減が大切になるわけです。歌うにしても楽器を演奏するにしても、リズムの中で適切な音程、音量に加減することが求められます。

このように、あらゆる物事の要諦は加減にあるのではないかと思うわけです。

戦国時代に関東地方を統治していた北条氏康が食事の時、息子の氏政が何度も味噌汁をご飯にかけて食べるのを見て「どのくらいかければ1回で済むのかさえわからないとは……北条もこの氏康の代で終わりである」と嘆いたという逸話が残っています。味噌汁のご飯へのかけ方を見て息子の器量を測ったと言えます。加減を知るということが、あらゆる事象に通じるということを表す逸話とも言います。

日本文化はもともと細部に工夫を凝らしたり、無駄を省くところに美しさを求めたり、ただ豪華絢爛を目指すのではなく「加減」に対する意識が高かったように思います。

日本は気候においても四季があり、その折々に感じる空気は微妙に移り変わり、周囲に咲く花や収穫される農作物も魚も変わります。このような環境は変化に対する感受性を高めてきたのだと思います。

しかし、近年はこのような「加減」がなおざりにされているように感じます。ケンカをして勢い余って相手を殺してしまったり、いじめで相手が自殺するまで追い込んでしまったり、店員を土下座させるほど文句を言ったり、住宅道で制限を大きく超える速度で車を走らせたり、その場面における適切な力の加減ができない人が増えているように思います。

加減ができるということは微妙な変化がわかるということです。それは自身の能力を向上させることにもつながります。そういえば、プロ野球の野村克也監督は「鈍感は悪」と言い、鈍感な選手は自分のミスについて気付いて深く考えようとしない。よって修正ができない。一流選手は例外なく感性が鋭く、修正能力に優れているというようなことを著書で書いていました。

逆に言えば、微妙な変化が分からない、加減が分からないと言うのは、感性に乏しいと言えるのかもしれません。現代に北条氏康が生きていても、嘆かれないような世の中であってほしいと思います。

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兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。