【写真:山田勇男撮影】
健在の千秋みつるさんに取材を始めたのが2021年1月。そこから出版まで5年余りにわたった取材記録をシリーズ記事としてお伝えします。編集上で割愛されたエピソードも加えて、作品世界をより深く感じていただければ嬉しく思います。
私が千秋さんに出会った時(2021年1月)、彼女は栃木県上三川町の借家に住んでいた。しばらくして家主が家を処分する関係で引越しせざるを得なくなり、2023年4月に宇都宮市に引っ越した。そこで2024年10月に真岡市に移るまで暮らしている。わずか1年半ほどの期間だが、この宇都宮での暮らしの頃が千秋さんと私の接点が最も多い時期だった。
東京からJRと私鉄を乗り継いで2時間以上かかるが、最寄り駅から徒歩圏内だったため、千秋さんに手間をかけることがなかった(上三川町の時は千秋さんがタクシーを手配するなど気遣いをしてくれた)。関東方面に用事がある時は立ち寄って、顔を合わせて話を聞かせてもらった。
部屋の様子は「♯1 96歳の女性歌手との出会い」でも触れた。築50年近いアパートで、もはや取り繕うこともやめた外観だった。
部屋は2DKで、手前が台所、中間が洋間、一番向こうが和室と三間が奥に向けて並んだ形だった。中間の洋間にベッドがあり、設置式クローゼットには衣裳がズラリと掛けてあった。奥の和室が居間の扱いで、そこと台所を往復していろいろともてなしてくれた。
冷蔵庫にはコンビニで買った惣菜や、切った野菜が入っていて、冷凍庫には冷凍食品がぎっしり詰まっていた。冷凍食品はサイコロステーキがあったことを覚えている。柔らかくて噛みくだきやすいからだという。お肉は固いからあまり食べられず、特に鶏肉は避けると言っていた。うっかり歯の間に詰まると、爪楊枝で取り除く時に苦労する。うっかり歯茎を傷つけると薬の副作用でなかなか血が止まらないという。ご飯はパックの製品を何度かに分けて食べていた。
話を聞くと、90代の食生活にはとても思えなかった。そんな食べ物ですら、ろくに入っていないこともあった。
そんな中でも千秋さんはこちらの食事に気遣い、足を運ぶとご馳走してくれた。寿司でも食べに行こうと誘ってくれたが、家で話をしながら食べた方が良いと言うと、いろいろと冷蔵庫から用意してくれた。栃木はアスパラやネギが美味しいといい、オムレツ、アスパラとウインナーを炒めたもの、トマトとレタスのサラダにパンと色鮮やかなメニューが机の上に並んだ。

当時の千秋さんはアパートのすぐ近くにあった自動販売機でお茶を買い、健常人で歩いて5分ほどのコンビニにシルバーカーでゆっくり歩いて、食料を足していた。
私が訪問した時も食料を一緒に買いに行った。数日間しかもたず根本的な解決にならないと知りながらも、それをすることで罪悪感が少し薄まった。歓待されながら、助けになれないという後ろめたさもあった。そのうちに、たまにの訪問なので、その時くらい何か喜んでもらいたいという気持ちが芽生えていた。
ある時は納屋橋饅頭をお土産に持って行った。話は1950年より少し前、千秋さんの宝塚歌劇団時代に遡る。名古屋宝塚劇場(後に名宝会館と名称を変えて2003年に解体)の向かいにあった小松屋旅館が、当時、歌劇団の名古屋公演時の定宿だった。その部屋にいつも置いてあったのがこの饅頭で、公演の逸話を色々と話してくれた時に好きだったと教えてくれていたのだ。
この薄い白皮に餡がぎっしり詰まった名古屋銘菓も店舗の閉店により、まもなく製造中止になってしまった。「懐かしいわ」と食べてもらったが、今はあの時持って行って本当に良かったと思う。
固いものを噛めなくても、柔らかく煮込んだものなら食べられないかと、味噌煮込みうどんを名古屋から持って行って料理したこともあった。それも千秋さんが好きだと聞いたからだった。
宇都宮の部屋にはうどんを煮込むような鍋はなく(コップ一杯のお湯を沸かすような小さな手鍋しかなかった)、近くのドンキホーテで料理器具を買っての調理だった。遠くから訪れて、少ない時間を調理器具の買い出しと料理に費やす来訪者を千秋さんはどのように思ったのだろうか。
何年か経った後、そんな出来事もすっかり忘れているだろうと思った頃、ポツリと「昔、うどんを料理して食べたわね、あの頃が懐かしいわ」と千秋さんがもらし、心が温かくなったのを覚えている。
上三川町から宇都宮に引っ越した頃の千秋さんは、最も周りに人がいなかった時期のように思う。電話をしてもまず間違いなく繋がった(最近は通話中のことも多い)し、月一回の新宿シャンパーニュの公演以外、予定を話すこともほとんどなかった。
その時、千秋さんが「今でも風ちゃんと大原ちゃんと萬ちゃんは電話をくれる」と話していたのを思い出す。宝塚の後輩であり、姉・深緑夏代の教え子の風さやか、大原ますみ、萬あきらのことである。
そんな千秋さんのもとに、私は度々、知人を連れて行った。
大正、昭和期の芸能文化が専門で『栄光の松竹歌劇団史』(日本評論社)、『遊廓・花柳界・ダンスホール・カフェーの近代史』(河出書房新社)などの著書のある作家の小針侑起さんを連れて行ったこともある。戦前から終戦後にかけて、千秋さんが次々に繰り出す証言に、小針さんが次々と質問を投げ返し、私にも分からない話が繰り広げられていった。
小針さんはそれから千秋さんのコンサートに何度も足を運び、心強い支援者の1人になっている。

宝塚ファンの木南麻浦さんを連れて行ったのもこの時期だった。
その日は本当は元タカラジェンヌを連れていく予定で、前々から千秋さんは後輩が来ることを楽しみにしていた。その友人である木南さんは付いてくるという形のはずだったが、しかし当のジェンヌが体調を崩して行けなくなってしまった。
私は約束していたので足を運ぶつもりだったが、木南さんにはあらためて一緒に訪問するか尋ねた。それは無理して来なくてよいと、暗に断る機会を与えたつもりだった。その時点で私と木南さんも付き合いが浅く、もともと千秋さんと何の繋がりもない彼女にとって、逆の立場だったらさぞ居心地が悪いだろうと想像したからだった。
彼女の返事は「行きます」と予想外のものだった。
JR宇都宮駅からバスで家の近くまで移動したが、窓に流れる景色を見ながら、千秋さんはどのような反応をするだろうかと、ぼんやり考えていた。千秋さんにとってもだが、それが木南さんにとって落胆させるような対面でなければよいと願っていた。
アパートの玄関をあけると、珍しく同伴者がいることに千秋さんは少し驚いた様子だった。「あの、お話ししていた宝塚の人は体調が悪くて……」と説明をする私の言葉を、たぶんほとんど聞いていなかっただろう。
会うなり千秋さんは「まあ、可愛いお嬢さんね」と部屋に迎い入れた。
考えてみると、こだわっていたのは自分だった。たぶん、ジェンヌがきても千秋さんは同じように迎えたのだろう。「こんな汚いところだから、外に行きますか」という千秋さんに、「ここでお話を聞くのがよいです」と木南さんはこたえた。
椅子をふたつ並べると、千秋さんはアルバムや過去の写真、ポスターのコピーをめくりながら、木南さんに思い出話を話した。木南さんは当時、月組の娘役トップスターだった海乃美月さんと千秋さんの若い時の雰囲気が似ているといい、スマホの写真を見せていた。「あら、本当ね」と千秋さんはどことなく嬉しそうだった。
宝塚歌劇団の同窓名簿を開き、32期生(千秋さんの期生)のページをめくった。そのページには他の年代にはほとんどない芸名の空欄、あるいは括弧書きの芸名が記されていた。戦争によって初舞台を踏めなかった生徒たちを退学扱いとせず、この前後の期生だけは特別な表記をしているのだ。戦争時代の宝塚について馴染みのない木南さんにとっても、それは心に残るものだったようだ。
木南さんがこの日、来れなかったジェンヌの名前を見つけ、千秋さんに教えた。「そう、この子なのね」と鉛筆で線を引くと、ページの角を折り曲げた。「大切な名簿なのに!」と木南さんが小さく悲鳴をあげた。
初対面だが打ち解けた2人を横目に、私は押し入れの中に眠っている資料のひとつひとつを確認して、最後は2人を部屋に残して選んだ資料を自宅に送るべく、郵便局に出掛けてしまった。話を任せて本人そっちのけで資料に向き合っている私を、千秋さんと木南さんはどう思っていたのだろうかと今になって思う。
最後、千秋さんが用意してくれたケーキを3人で食べている時、千秋さんは「こんな若い友達と一緒に過ごせて嬉しいわ」と言った。その後も何回か「友達」という言葉を口にした。
この時、話した内容についてほとんど覚えていない。でも、千秋さんが「友達」という言葉を繰り返したことが印象に残っている。それまで彼女がその言葉を使った記憶がほとんどないからだった。
わずかな時間だが一緒にいて、何となく千秋さんが「友達」という相手がどのような人間か分かるような気がする。それは直感的で、芸能関係とか一般人とか肩書きは関係がない。付き合いの長さも必ずしも影響しないように思う。
あの部屋にもう千秋さんはいない。あそこに住むのをあまり好んでもいなかった。
だけど、あの寂れた古アパートの、楽譜や書類がそこらに置かれた狭い部屋。それは私にとって千秋さんの原風景である。食事をして、話を伺い、人を連れて行き、わずかながら一緒に過ごした時間に、今もふと立ち返る。
それは古いフィルムのようにすでに色あせてはいるけれど、確かに豊かな時間であった。




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