〔2025年Birthday Liveで歌う千秋みつるさん(栃木県真岡市)2025年1月19日撮影〕
健在の千秋みつるさんに取材を始めたのが2021年1月。そこから出版まで5年余りにわたった取材記録をシリーズ記事としてお伝えします。編集上で割愛されたエピソードも加えて、作品世界をより深く感じていただければ嬉しく思います。
前項でも少し書いたが、千秋さんの衰えが目立つようになったのは、2023年の後半から2024年に入るあたりで、94歳を迎える時期であった。
電話をしていても、耳が遠くなり、理解も追いつかないのか、こちらの質問に対して全く違う答えが返ってくることが多くなった。以前はほぼ正確だった証言の時系列が十年単位で前後するようにもなった。以前に話してもらった内容と違う証言も多く、書籍でも2024年以降の証言は差し引いて捉えている。
心身ともに老いは隠せず、周囲はさりげなくフォローしようとするが、千秋さんはそれを理解できていない様子だった。周囲がおかしなことをすると、介護サービスや医療側の人間を責める言動が電話で多く聞かれた。
以前のような言葉のキャッチボールができなくなり、どこか千秋さんが遠くに行ったように感じていた。
記憶力も目に見えて衰えていた。ある時、取材のために千秋さんの戸籍関係の書類を取り寄せたことがあり、郵送で自宅に送るように手配していた。到着直後を見計らって自宅に伺い、見せてもらう予定だった。
千秋さんは以前からよく家を整理していたが、どこに何をしまったのか記憶していないことが多かった。その時は届いた戸籍が紛失するといけないので、役所から届いた書類は封をそのままにして、しまわずにテーブルに置いておくように何度も頼んでおいた。
しかし、いざ自宅に伺うと書類はなくなっていて、家中を探したがなかなか見つからなかった。私は落胆した。あれだけ念を押したのに、たった数日でもものをなくしてしまう。私は居住区が離れていて、千秋さんの家に伺える機会はそう多くない。また手続きして確認する手間を考えると、仕方ないと思いつつも内心腹立たしい感情も少し芽生えた。
私の様子から何かを察したのか、千秋さんは必死に書類を探した。少し休憩して、痛い膝をおして立ち上がり、引き出しを探し続けた。その痛々しさにこちらも冷静になり、やめるように言ったが、千秋さんは引かなかった。
引き出しの奥からようやく書類が出てきた時、千秋さんはなんともいえない安堵した表情を浮かべていた。
そのようなやり取りもあり、2024年の『シャンソンコンセール レ・ザンファン』(豊中市立芸術文化センター)では、無事に公演をして戻ってこられるかも不安があった。なんとか大阪から栃木の自宅に戻れたものの、歩いている様子や周囲の人とのやり取りを見ても、1人で外出するのはもはや厳しいのではないかと感じていた。
この時期、千秋さんの周囲でお手伝いをしてくれる女性が現れて、シャンパーニュでの公演の送り迎えを車でしてくれることになった。
千秋さんが倒れたのは2024年7月11日。その日ははじめて送迎付きでシャンパーニュに行く日だった。迎えの女性が訪問すると、千秋さんは意識が朦朧として、足に痙攣も起こしていた。明らかな異常にすぐに救急車が呼ばれた。常日頃は入院を頑なに拒否する千秋さんだが、この時は2週間ほど病院に留まることになった。
シャンパーニュの公演を直前で中止するのは、姉(深緑夏代さん)の死後に公演を続けて以来、はじめてのことだった。
診断名ははっきり付かなかった。ただ、千秋さんは真夏にもかかわらず、節約のためにクーラーを付けていない時があった。また、部屋を訪れた時にあまりに熱いのでリモコンを確認すると、冷房ではなく暖房が付いていた時もあった。熱中症や脱水になる背景は十分にあった。
救急車に乗るのもはじめての経験だった。「救急車の中っていい香りがするのね。ふわーっと気持ちよくて、このまま死んでもいいかなって思いました。あそこから私、変わりましたね」。
その翌月、まだ退院後時間はそれほど経っていなかったが、千秋さんはシャンパーニュの公演に出演した。私はその時の姿をその場で見ていたが、少し痩せておぼつかない感はあったが、7曲しっかり歌い上げていた。コンサート中に感情を出すことはほとんどない千秋さんだが、この時は少し目が潤んでいるように見えた。
エスコートの男性が「千秋さんは不死身ですから」と讃えた。
後でこの時のコンサートについて、電話で尋ねても「病院から出てきたばかりで準備もろくにできなくてね。送ったはずの譜面はなかったし、服もあんなもので」とコンサートの出来について話して、特別な感慨もなさそうだった。赤い素地に水玉の少し派手で珍しい印象の服であった。

千秋さんの何が変わったのだろうか。私にはあまりわからなかった。ただ、以前のように周囲に対してひどく責めるような言動はなくなっていった。
その後も千秋さんはシャンパーニュの公演を続けて、10月に現在の住居である栃木県真岡市に引っ越すと、翌年(2025年1月)には地元のカフェレストランで95歳の誕生日会を開催した。栃木県でも有志が小さなコンサートを時々開き、5月20日には大阪で深緑さんの追悼公演『レ・ザンファン』にも出演した。
この時の『レ・ザンファン』の帰りはまたホテルから新大阪まで歩き、今回は新大阪構内の喫茶店で1度休息してもらった。1年前より状況が心配だったので、新幹線にも一緒に乗り名古屋まで同席した。東京駅には迎えが来る算段だった。
この時、千秋さんに聞こえるように声を大きくして話していたら、車掌さんに注意された。千秋さんは「何もあんなこと言わなくっていいじゃない」と不満そうだった。しかし、この件で混乱したわけでもないだろうが、私はさらにトラブルを起こしてしまった。
新大阪から出発して、私は名古屋、千秋さんは東京まで行き、そこから東北新幹線で宇都宮まで戻る予定だった。私は千秋さんがなくすと困るので、彼女の切符を預かっていたのだが、あろうことかそのまま新幹線を降りてしまった。名古屋駅の改札口で切符を2人分に持っていることに気が付いて青ざめた。あわてて駅員さんに事情を話すと、列車の車掌さんに連絡してくれて代用の証明書を発行してくれた。
後に電話で千秋さんに謝ると、車掌さんが来て連れて行かれてあれこれ調べられたが、最後には分かってくれて、新しい切符をくれたと穏やかに話した。千秋さんを子供扱いしたが、大きな不手際をしたのは自分の方であった。
千秋さんは自分のことをよく「ドジ」と回想していて、私は書籍でも彼女の言動を時に辛辣に書いている。誰よりも厳しい視点で観ているように思う。しかし、私も千秋さんの前で相当にドジを重ねている。東京駅から宇都宮に向かう途中の電車で乗り過ごして、約束の時間に2時間遅れたこともあった。その時もそうだったが、千秋さんは私が何か失礼をしてもこともなげに許してくれた。
千秋さんとの思い出を起こすと、不完全なもの同士が付き合っているのだと、ことさらに感じる。そこに何か大切なものがあるような気がするのである。
私は2025年2月はじめに多田家のルーツであり、深緑夏代さんが女学校時代に1年間過ごした対馬に足を運び、最後の取材とした。残っていた原稿の空白を埋めて、深緑さん、千秋さん姉妹の人生を書いた第1稿は2月16日に完成した。それから出版先を探す作業に入り、青弓社と条件を合わせて成約できたのが7月16日だった。
千秋さんには成約時に出版のことを伝えて、たいへんに喜んでくれた。そして「本を生きているうちに見て、それを売って何とか恩を返したい。自分ができること何でもする」と言った。千秋さんに負担をかけても心配なので、かえって熱を収めようとしたが、その気持ちがとても嬉しかった。
元気なうちに完成した本を届けることが目標であったが、それがいよいよ現実味を帯びて近付いているようだった。
2026年1月25日、東京都港区青山のヤマナシヘムスロイドで千秋さんの96歳の誕生日会が開かれた。私は書籍の1回目の校正を終わらせたばかりだった。

会は千秋さんの長年の理解者である山梨牧子さんが企画したもので、牧子さんの母・幹子さん(英国、北欧の手工芸文化の日本への紹介に功績。ヤマナシヘムスロイドの主宰者)、映画監督の山田勇男さん、作家・翻訳家の道下匡子さん、シャンソン歌手の唯文さん、大石勢津子さん、元宝塚歌劇団の早花まこさんなどが一緒に記念日(実際の誕生日は26日)を祝った。かつて宇都宮の自宅に案内した作家の小針侑起さんや木南麻浦さんも足を運んでくれた。
会には出席できなかったが、元宝塚歌劇団でアイルランド音楽に造詣の深い奈加靖子さんも開演前に挨拶に訪れていた。
私が千秋さんと前に会ったのは、前年に真岡市で行われた誕生日会だった。1年前のことで、こんなに長い期間会わなかったのは取材してからはじめてのことだった。
控え室に到着した千秋さんは念入りに体操を始めた。時間をかけて身体の至るところを丁寧に伸ばす。私が近くにいても関係ない様子だった。実際のところ、私と認識していなかったという。1年ぶりでスーツも着ていたので雰囲気が違っていたのだろうか。「なんでこの人、私の近くにいるの?とずっと思っていたの」と笑いながら話していたと後で聞いた。このような人に関する勘違いは千秋さんではよく起こる。

間もなく会場で音合わせが開始されて、私も近くで聴くことにした。
最近のコンサートでは、千秋さんの歌を聴く時に楽しみよりも不安が先立つようになっていた。耳が遠くなってから、メロディと歌詞が外れることが多くなり、コンサートでピアノ奏者が必死で合わせるのをよく見ていたからである。私は千秋さんを理解しているつもりだが、他のお客さんはどう思っているのかわからない。千秋さんが大事にしている歌で、衰えを隠しようもなく突きつけられるようで、それは私にとって心が痛いものだった。
広くない会場なので、早く到着した客は音合わせ中のアトリエに続々と入ってきた。この音合わせの場でも歌詞のずれは度々見られた。特に千秋さんがよくリクエストされて、どのコンサートでも歌う『生きる』※1は音と歌詞のずれだけでなく、歌詞が前後するなど間違いがよく見られて、修正もなかなか上手くいかなかった。何度か音合わせが繰り返されてが、『生きる』はとうとう最後までしっかり合うことはなかった。
この日、演奏したピアノ奏者の林朋子さんは、栃木でも何度か千秋さんの伴奏を務めていた。『生きる』が特に上手くいかない理由について尋ねると、『生きる』の場合は同じフレーズや繰り返しが多く、譜面を目で追っていて分からなくなるのではないかと分析していた。
誕生日会で千秋さんは、第一部で『孤独』『愛しかない時』、第二部で『娘へ』『生きる』を歌う予定であった。歌の合間に休息も兼ねて、第1部では私がスライドを交えながら千秋さんの紹介や思い出を話し、第2部では山田勇男監督のトークと、2014年に千秋さんを撮影した映像『海のマリー』が上演された。
この日の千秋さんは歌の前の口上でもずいぶんと多くのことを話していた。横で見ていたのだが、嬉しいのだろうと伝わってきた。歌の出来も良く、第一部の『愛しかない時』は特に素晴らしかった。休憩時間に林さんに「やりましたね」と労をねぎらうと、「こういう時があるからやめられないです」と話してくれた。
ヤマナシヘムスロイドはもともと手工芸のアトリエで、音楽の設備は何もない。マイクは千秋さんが持ち込み、電子ピアノを林さんが持参してくれた。音響にも疎く、マイクが音割れを起こした時は、客席から唯文さんが前に出て調整してくれた。
いよいよ最後の『生きる』を迎えた。横で譜面台に乗った歌詞を整理しながら、なんとか無事に歌い終わるように祈る気持ちだった。
静寂、そして寂しげな前奏の後、千秋さんが歌い始めた。
その時を一言でいえば、素晴らしかった。メロディから外れることもなく、歌詞の間違いもほとんどなかった。音合わせの出来がなんだったのかと思うくらいで、今まで聴いた千秋さんの『生きる』の中で最高の出来と思うほどだった。
歌う千秋さんの向こう、音響装置のそばで、唯文さんが真剣な面持ちで一緒にリズムをとるのが見えた。普段、シャンパーニュで千秋さんのエスコートを務めることもあり、無事に歌い終わるように思ってくれていたのだろう。客席の中には涙ぐむ人もいた。千秋さんの歌を通じて繋がる優しい空間だった。
ふと、このような優しい時間にまた身を置くことができるだろうかと思った。小さなアトリエでお互いを知らないもの同士、96歳の老歌手の歌を通じて心が繋がるなんて、ひとつの奇跡のようにも思えた。

この誕生日会では本の出版のことも案内された。2021年1月に千秋さんとはじめて電話して、出版へと続いた道のりは長い旅のように思えた。千秋さんと深緑さんを通じて多くの人と出会い、未知の世界に触れた経験は、私にとって生涯の宝物と思えるものだった。
本の出版が近付き、その旅も終わりが近付いているように思えた。私はどんな気持ちでその日を迎えるのだろうか。千秋さんはどのように本を受け取るのだろうか。出版準備を進めながら時々考えるようになっていた(※2)。
※1 『生きる』原題:Ma dernière volonté、作曲: Alice Dona、歌手:Serge Reggiani。日本語訳は矢田部道一のものが有名。これまでの生きた軌跡を振り返り、人生に思いをはせる歌詞が千秋さんのイメージと合うのか、多くのコンサートで依頼され、歌っている。姉・深緑夏代が最後に歌った曲でもある(2009年1月5日 シャンパーニュ)。
※2 この原稿は2026年5月28日の出版前に書いています。



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