こぼれた原稿から(宝塚編)~もうひとつの『タカラヅカとシャンソンの時代』♯5

 2026年5月28日に青弓社より『タカラヅカとシャンソンの時代 深緑夏代と千秋みつるが奏でた歌物語』が刊行されました。同書は宝塚歌劇団出身でシャンソン歌手として名を馳せた、故・深緑夏代さん(1921-2009)と、同じく元宝塚で現在もシャンソン歌手として活動中の千秋みつるさん(1930-)姉妹の人生を綴ったものです。
 健在の千秋みつるさんに取材を始めたのが2021年1月。そこから出版まで5年余りにわたった取材記録をシリーズ記事としてお伝えします。編集上で割愛されたエピソードも加えて、作品世界をより深く感じていただければ嬉しく思います。

 どのような芸術表現でも、作者の思いや労力を費やしたことが、そのまま作品として残るわけではない。テーマをより分かりやすく伝えるための見直しは、どのような分野でも必要なことである。 この書籍でも全体の中で余剰に思えた部分や、構成上で適切な置き場所がなかったエピソードは、それ自体が魅力的であっても割愛せざるを得なかった。今回はそのようなエピソードをいくつか紹介したい。

深緑夏代と仲間たち

近江輝子

 1枚の写真がある。本書にも収録されているが、仲の良さそうな生徒3人の写真である。向かって左が深緑夏代、右が越路吹雪、そして中央が近江輝子(在団時は大宮輝子、大美輝子)である。

 深緑さんが入学した宝塚少女歌劇団25期生は、卒業生が104人を数える大所帯だった。同期に汐風みちみ、大伴千春、若潮みつる、清川はやみ、聖瑞穂、山鳩くるみ、谷間小百合、小雪京子、萬代峯子、星影美砂子、沖ゆき子、宮川五十鈴、帆影美里、朝雲照代、東屋鈴子、鵲渡、日高澄子、青井このみ、東風うらゝ(後の宮城千賀子)といて、当時はスター揃いの優秀な年と捉えられていた。これらの生徒たちのほとんどが宝塚の歴史上振り返られないのは、多くが戦前に退団したことと、戦争と活躍期が被って、華々しい舞台への出演が乏しかったことも原因だろう。

 近江輝子もその深緑さんの同期の1人で、とても仲が良く、退団後も晩年まで深緑さんと付き合いがあった。近江は関西方面の深緑さんのリサイタルにはよく足を運んで、病気をして歩行に杖が必要になっても、在住していた京都のコンサートには顔を出していたという。

 千秋さんは証言を次のように残している。

    近江さんは私より先に映画界に行っていて、京都の撮影所で会うと「あらー、みっちゃん」と声をかけてくれる気さくな先輩でした。背の大きい、彫りの深いきれいな顔立ちで、宝塚では三枚目が多かったけど、男役もできましたね。

 体が悪くなって映画に出られなくなって、お姉さんと一緒にお部屋を訪ねたこともあってね。「車椅子で買い物に行くんだ」と言ってましたね。お姉さんより一足先(筆者注:2008年)に亡くなったのだけど、最後まで頭はしっかりしていて、口は達者でした。2人で話している時は世間話が多かったですね。「あの人は今どうしているやろ」とか、「体はどうやねん」と聞いたら「あんたもどうやねん」とか。シャンソンの世界で話すお姉さんとは違う感じでした。

 お姉さんは近江さんのことが人間として好きだったのではないかと思います。近江さんは良い意味で普通の人でした。お姉さんがスターになる前から付き合っていて、優しかったのだと思います。

越路吹雪の華

 千秋さんの姉・深緑夏代は戦前にほとんど活躍する場がなく、花開いたのは戦後である。その歌唱力を武器に越路吹雪とともに、ジャズやブギなど海外から再び入ってきた音楽をいち早く取り入れて、その洒落た感覚は宝塚を新時代へと導く原動力のひとつとなった。
 ここでは深緑さんの舞台上のパートナー・越路さんのエピソードを紹介したい。

 1944年3月、決戦非常措置要綱により宝塚大劇場は軍部に接収されて、戦後も進駐軍の管理下となり、晴れて再開公演ができたのは1946年4月であった。当初は4月1日に再開予定であったが、兵庫県にチフスが蔓延して、寄宿舎でも発症者が出たために22日まで延期になった。

 この延期期間中、寄宿舎で生活していたものは一歩も出られない隔離状態となり、外部との接触が一切断たれて、後半は食糧も不足するという事態になっていた。当時の寄宿舎は各々自炊する形で備蓄もそれぞれであった。

 戦前は親友の岩谷時子や先輩の神代錦の家に居候していた越路だが、この時期は入学当初と同じように寄宿舎に戻っていた。

 食糧がなくなりお腹を空かせた越路は南悠子と一計を案じる。発端は南がどこからか三味線をふたつ持ってきたことだった。南は一竿を越路に持たせると、一生懸命歌い出した。金比羅船々の唄を覚えろというのである。それから二人は丹念に顔を作り、一張羅の着物をお引きずりに着ると、手ぬぐいを頭から被って部屋を出た。三味線を抱えて隣室を訪問した2人は「ごめん下さいまし、金比羅船々……」。異様な風采の訪問者に最初は相手もギョッとするが、すぐに越路と南とわかりゲラゲラと笑い出した。洒落っ気のある生徒は歌が終わると「ご苦労さんです。ほんの志ですが」と郷里から来たそら豆を包んだり、皿にジャコを入れたりしてくれた。そのうちに変な門付けが部屋を回っていると寄宿舎中に知れて、生卵、小麦粉、小豆、沢庵のしっぽなどをくれるようになった。
 実入りが多くなると、大人しい淡島千景がお盆を持って後ろから付いてくるようになったという。

 これは越路自身が書いた『私の自叙伝⑤ 街は汚れても美しくありたい』(『週刊娯楽よみうり』1958年12月5日号)をもとにしている。越路は自身と南悠子、久慈あさみの3人を「その名も高い三悪童」と書いている。
 越路の記述では「門付け」は越路と南の二人組とされているが、岩谷時子(『愛と哀しみのルフラン』講談社 1982年)では、淡島、南が三味線で、越路、久慈あさみが歌って部屋を回ったとしている。

 淡島、南、久慈は「月組三羽烏」「東京三羽烏」などと呼ばれて人気を博し、越路や深緑さんとともに戦後の宝塚歌劇団復興の原動力になった。
 このエピソードはスターたちの知られざる一面を見せてくれるとともに、物資に乏しくてもユーモアを忘れない豊かな精神性を持っていたことを感じさせてくれる。

〔雑誌の撮影にて、深緑夏代(左)と越路吹雪(右)『歌劇之友』1950年9月号より〕

宝塚の青春

千秋さんのドジ

千秋さんの証言――

 宝塚の舞台には中央に回転する装置があったのだけど、その隙間に私の下駄がはまり込んで、そのままいつまでも下駄がクルクル回っていてね。私はその後、履くものがないから、スリッパで出たなんてこともありました。

 いつの時だったか、緞帳が下りていると思って、地下から下手に行くのが面倒だから舞台を横切ろうと歩いたことがあったの。腕を組んで次のシーンのことを考えながら歩いていたら、何だか明るいわけ。横を見たら緞帳が上がっていて、目の前に春日野さんと乙羽さんがいるの。どうしよう! と思って、引き返そうと思ったんだけど、もうすでに舞台の真ん中まで来ていたから、あわてて走って上手に行ったの。本当、こんな感じだから出世しなかったんだと思います。

 当時の大劇場の楽屋はね、鏡台がズラッと並んでいて、背中合わせに座っているの。研一(舞台1年目)の時はお正月公演も休まずに出ていたのね。
その時はみんな踊る時のチュチュを着ているわけ。暖房も冷房もなかったけどニクロム線がぐるっと回っているようなむき出しの電熱器がね、床が畳なんだけどその列ごとに置いてあるの。すごい原始的でしょう?
お正月はやっとお餅が手に入ってね、みんなオヤツがないから、その電熱器でお餅焼いていてね、わあ、良いにおいだなって思っていたら、後ろ向いて座っている子のチュチュに燃え移って、煙が出始めたの。燃え移った子は宮本萬里子(芸名:都路東)だったかな? その時でも火より上級生の方が怖いから、近くに上級生いないか確認して、その子裸になって、みんなでチュチュを足で踏んでね。そんなに今の線維みたいに勢い良くは燃えないから。上級生に知られると怒られるから「みんな、シッ!」ってただ黙って火を消したの。

 千秋さんの話にはそそっかしい話が多い。自身からも「私はドジだから」と何回も聞いた。火が燃え移るという話は他にもあって(寄宿舎で新珠三千代さんと自炊した時の話で、そちらは書籍に収録した)、重なっている感がありこちらは割愛した。
 思うと宝塚に入学したのも、女学校の入試時に受験票を忘れたからだった。当時の夢は看護師か教師だったというから、ドジが千秋さんの人生を変えたとも言えなくはない。

淡島千景と風呂

 千秋さんの宝塚歌劇団在団は1945年から5年ほどである。ほぼ全期間にわたり下級生という位置付けだった。越路吹雪、淡島千景、乙羽信子など、後に映画で活躍する女優たちを後輩という立場から見てきた。千秋さんの思い出は、共演者やファンたちとは少し違った角度から彼女たちを見ている。書籍本文では割愛されたエピソードをひとつ紹介する。千秋さんの証言――

 『南の哀愁』や『真夏の夜の夢』の頃(1947年)の話だけどね。当時の大劇場には地下にお風呂があって、洗い場は10人くらい入れて洗面器がズラッと並んでいたの。白粉を体中に塗るからそれを落としてから帰るのだけど、シャワーなんてなくて湯舟から桶でいちいち汲んでね。湯舟には一斉に入っていいんだけど、上級生から順番で結局入ったことは一度もなかったわね。お湯を汲む時も「すみません」って言ってね。気を遣うから一番最後に入っていたのだけど、月組の時は淡島千景さんと野花千代さんが一番最後に入るのが決まりなの。みんながいなくなって二人きりでゆっくり話すのね。だから先にも入れず、後にも入れず、月組の時はお風呂には入れずじまい。宝塚には当時「デベン」という言葉があって、特に仲の良い親密な2人がそう呼ばれたんだけど、まさしく2人はデベンだったわね。

 「デベン」とは戦前の宝塚で特によく聞かれた言葉で、男役と娘役のことを「コンビ」というが、こちらは舞台外でも密接なニュアンスで、もとは仕出し屋の弁当の意味であったという。いつもご飯とおかずが仲良くくっついているのが理由で、「出前の弁当」が略されて「デベン」になったという(乙羽信子『どろんこ半生記』142ページ参考)。

〔男役:野花千代、娘役:淡島千景 当時販売されたブロマイドより〕

森雅之との思い出

 千秋さんが宝塚の舞台に上がってからしばらく経った頃、名優・森雅之と会う機会があった。それは同僚のファンレターという奇妙なきっかけだった。千秋さんの証言――

 昭和24年頃だと思う。私は森雅之さんのファンで、他に『懐しのアリゾナ』でペアを組んだ三浦梨花さん※1と、あと恵ゆたかさんも同じく大ファンだったの。ある日の大劇場公演で、三浦梨花さんが「森雅之が見に来ているよ」って言うので「なんで?」って言ったら、ファンレター出したら返事が来て「ちょうど京都で撮影をしているので、劇が終わったら終点(宝塚駅)のホームで待っています」って書いてあったそうなんです。


 「あんな大スターに迷惑でしょ。しかも駅で待たせて」って私は注意したんだけど、「行こう行こう」って言うものだから、断りきれなくて付いていったの。阪急宝塚駅に着いたら本当にホームに待っていてね。ソフト帽を被って背中を向けて、一見分からないように立っていたんです。

 満員電車の中、吊り皮で立つ森さんの横にいたけど、何も話すことができなかった。京都の八坂神社のふもとの古い旅館に案内してもらってお茶をご馳走になって、撮影の話を色々と聞いて……「ごはんをこれから食べに行くけど、君たちどうする?」と聞かれたので、「迷惑になるから帰ります」と別れたのね。

 宝塚の人からのファンレターを見て、まさかこんな子供たちとは思わなかったんじゃないかな。おしゃれで外人みたいな人でした。

 森は戦前に妻がいる身ながら元宝塚歌劇団の梅香ふみ子と関係を持ち、梅香は女児を出産している(後の中島葵)。この頃は妻と離婚をして、日劇ダンシングチームのダンサーの吉田順江と再婚し、次男(先妻との間に一男がいた)が生まれたばかりであった。森の女性遍歴は病的なほどで、順江と再婚後も浮気を繰り返していたが、みつるたちはそれも知らなかった。森はこの時、どのような気持ちで足を運んでいたのだろうか。

※1 『懐しのアリゾナ』(1949年6月雪組)で千秋さんはヒロイン・キャスリン(乙羽信子)の少女時代を演じている。主人公・リュークの少年時代を三浦梨花が演じた。

 千秋さんの活動を大まかに分けると、戦前の宝塚音楽舞踊学校時代、終戦直後の宝塚歌劇団在籍期、その後の映画、テレビ女優時代、そして芸能活動の空白期間を経てシャンソン歌手となり、現在へと繋がっていく。

 千秋さんが宝塚音楽舞踊学校に入学したのが12歳で、戦争により卒業が遅れたが、それでも初舞台は15歳だった。退団の時でも20歳になったばかりである。

 90年を越える人生の中で、最も鮮やかに記憶を話してくれるのが宝塚歌劇団の時代である。その頃の歌劇団には天津乙女、春日野八千代、越路吹雪、淡島千景、乙羽信子、寿美花代などがいた。

 千秋さんの記憶はその生徒たちの意外な一面とともに、彼女たちも一緒に過ごした、終戦直後のノスタルジーあふれる劇団生活の断片を伝えている。

〔青春のひとコマ。地方公演の途中で琵琶湖に立ち寄り撮影。座っているのが浦安伸子、指さしているのが恵ゆたか、立っているのが千秋さん(1950年8月頃撮影)〕

 

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ABOUTこの記事をかいた人

兼業作家。2023年4月『園井恵子 原爆に散ったタカラジェンヌの夢』(国書刊行会)上梓。歴史全般が興味の対象ですが、最近は大正~昭和の文化、芸術、演劇、映画、生活史を多く取材しています。プロフィール写真は愛貓です(♂ 2009年生まれ)。よろしければTwitterのフォローもお願いします。(下のボタンを押すとTwitterのページに移動します)。