〔写真は松竹映画時代。主要俳優を集めて新年会らしき記念写真。前列左から西川ヒノデ、谷鈴子、千秋さん、高千穂ひづる、藤代鮎子、川田晴久、後列左から大木実、高田浩吉、北上弥太郎〕
健在の千秋みつるさんに取材を始めたのが2021年1月。そこから出版まで5年余りにわたった取材記録をシリーズ記事としてお伝えします。編集上で割愛されたエピソードも加えて、作品世界をより深く感じていただければ嬉しく思います。
1950年に宝塚歌劇団を退団した千秋さんは東横映画(後の東映)に移り、映画界に足を踏み入れる。1952年から松竹所属となり、斎藤寅次郎監督などの作品に出演。大木実、高田浩吉、美空ひばりなど多くのスターと共演する。1957年からは活動の場をテレビに移して、黎明期のテレビドラマに多数出演した。

♯5の「こぼれた原稿から(宝塚編)」に続いて、千秋さんの映画・テレビ時代について割愛したエピソードを紹介する。
目次
東横映画での仕事始め
宝塚退団後、千秋さんの所属先になった「東横映画」は1938年6月に東京横浜電鉄(現・東急電鉄)の子会社として設立された。当初は渋谷地区に映画館を経営するための企業だったが、そこに根岸寛一、マキノ光雄を迎えて、1947年から映画製作事業にも乗り出す。根岸、マキノともにかつて日活(1942年から製作部門を閉鎖していた)と満州映画協会で辣腕を振るった歴戦の映画プロデューサーだった。千秋さんの回想――
東横映画の本社は五反田駅前の白木屋内にあった。マキノ光雄は、本名は母方の姓を名乗っていて多田光次郎といった。多くある活動名の中にタダミツオというものもあったから、千秋さん(本名が多田充)に合わせてこのように話したのだろう。
撮影所に入って最初の仕事は看板役者への挨拶だった。東横映画には大映から移籍してきた片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介など戦前の時代劇スターを多く抱えていた。回想――
千恵蔵さんは御大らしく、どしりと落ち着いていて時々ニコリと笑ってね。「今、どんな作品に出ているの」とか「宝塚にいたの」とか気を遣って聞いてくれるのだけど、私も大人の話題が全くないでしょう? 千恵蔵さんもベラベラしゃべる方じゃないから話が弾まなくてね。お母さんが大ファンだったからそういうこと言えばいいのだけど、緊張しているし、頭が回らなかった。ずいぶん子供だなと思っていたんじゃないかな。
右太衛門さんは雑誌社の企画でお宅訪問する機会があってね。「新人・千秋みつるが『北大路の御大』※1に挨拶」みたいな企画でね。この時も緊張したんだけど、まだ小さかった欣也ちゃん(北大路欣也)が絡んできてね。そっちとしゃべったり遊んだりして、それを見て右太衛門さんが嬉しそうな顔してそばに来て。右太衛門さん子煩悩でしょう? また欣也ちゃん中心におしゃべりが始まって、写真を撮って。欣也ちゃんのおかげでいい写真が撮れました。
※1 北大路(京都市北区)に住居を構えていたことからこのように呼ばれていた。
千秋さんに最初に与えられた映画の仕事が『風にそよぐ葦』だった。芥川賞作家・石川達三の原作で、小説同様に映画も前後編が作られた大作だった。しかし、この映画は大きな話題にならず、東横映画は負債を大きく抱えていたことで、出演料もなかなか支払われなかった。そして、なぜかその後、映画の仕事もほとんど与えられなくなった。
1951年の暮れ。千秋さん側が経済的苦境を訴えると、会社は大阪のマンモスキャバレー「メトロ」の営業を紹介してくれた。これで年越しを凌いでくれというメッセージだった。幸いだったのは「メトロ」はギャラを即金で支払ってくれたことだった。
好転の兆しも見えない状況から、千秋さんは知人の紹介でライバル会社の松竹に移籍することになる。1952年のことだった。

松竹に移籍
『女だけの心』と『母の誕生日』
松竹を紹介してくれた知人が、斎藤寅次郎監督と仲が良かったことから、千秋さんの松竹時代は『腰抜け伊達騒動』『びっくり三銃士』(1952年・松竹)、『あっぱれ五人男』『勢揃い大江戸六人衆』(1953年・松竹)、『歌まつり 満月狸合戦』(1954年・新東宝)と斎藤監督作品が多い。
『腰抜け伊達騒動』『びっくり三銃士』ともに千秋さんは若きヒロインを演じている。しかし「喜劇の神様」と呼ばれた斎藤作品の現場は、撮影外でもふざけた雰囲気で下ネタが飛び交い、宝塚しか知らない千秋さんにとって馴染めない環境だった。
当時は大手映画会社でも、1時間に満たないホームドラマ的な作品を制作していて、千秋さんはそちらの方が肌に合っていた。
『女だけの心』(1953年松竹 田畠恒男監督)、『母の誕生日』(同 萩原徳三監督)では千秋さんはいずれもヒロインとして起用されて、ポスターでもクレジットでも大きく扱われている。
『女だけの心』は、一ノ瀬というある一家のホームドラマで、主の孝作を有島一郎、ヒステリックな妻・けい子を吉川満子、養子で長男の修一を若杉英二、実子の長女・公子を千秋さん、次女・春江を小園蓉子が演じている。夫婦は養子の修一と公子が結婚することを望んでいて、二人も愛し合っているが、修一は義母・けい子との折り合いに不安を抱いている。けい子、春江の勘違いをきっかけに、修一が家を出る騒動に発展するが、最後は全てが解決に進むような兆しを見せて幕を閉じる。
『母の誕生日』は中里恒子、美川きよ、小山いと子原作のNHK連続ラジオ小説の映画化で、津路嘉郎が脚色を担当している。院長死後の廃業した病院の一家とその周りの人々の物語で、未亡人・さきを吉川満子、長男・恭介を増田順二、その友人・土井を細川俊之、ヒロインで次女の路子を千秋さんが演じている。
未亡人・さきは路子を医者に嫁がせて病院を再建したい夢を持っているが、病弱な路子の縁談はなかなか決まらない。ある時、土井の勧めで、路子は手製のフランス人形を展覧会に出品して特選となるが販売を拒む。ウエディング姿の人形は、嫁ぐ先のない自身の心そのものであった。やがて、恭介の北海道への赴任が決まり、一家で移住することになる。別れ際、路子は土井に特選となったフランス人形を贈る。医師が条件と思いあきらめていた土井であったが、路子への恋心から求婚し、路子も受け入れて二人の結婚が決まる。さきは北海道で土井と路子と暮らすことになった。さきの誕生日。住み慣れた家での最後の祝いで、自分の夢が消えたことを忘れて、彼女は幸せであった。
『女だけの心』『母の誕生日』ともに、今、覚えている映画ファンが果たしているのか、というくらいの知名度である。しかし千秋さんにとっては、喜劇よりも、地味であるが丁寧に心情を追ったホームドラマの方がやりがいを感じるものだった。
田畠、萩原とも斎藤監督と違い、新人監督の域を脱しない扱いであったが、千秋さんは気を楽にして接することができたという。

スターとの思い出~勝新太郎、鶴田浩二
映画、テレビと、千秋さんは多くのスターと共演している。
1952年1月、俳優相互の親睦を目的に「関西歌舞伎俳優協会」が結成された。東京には明治から俳優による組合が作られていたが、関西では初めてのことだった。後にこの組織は東京の「日本俳優協会」と合流して「日本俳優協会関西支部」となる。千秋さんも協会に出入りして、そこで他の映画会社の俳優たちとも交流を持ったという。千秋さんの回想――
勝新さんは当時からダンディで、スーツをビシッと決めて、顔も日本人離れしていました。ラテンを歌って、リズムの取り方がどこか石原裕次郎を意識させました。大映の時代劇で玉緒さんと共演したのはまたもう少し後、そこから時代劇で売れ始めましたね。
1954年、千秋さんは映画『此村大吉』(大映)に出演する。主演は鶴田浩二で、共演者として宝塚の先輩である久慈あさみ、南悠子も名前を連ねていた。
監督のマキノ雅弘は、みつるが東横映画時代に世話になったマキノ光雄の兄で、それまで全く縁のなかった大映への出演はその伝手だった。
当時、人気の絶頂にあった鶴田の勢いを背景にしたスター映画で、腐敗して市井で無法の限りを尽くす旗本崩れの徒党相手に、貧乏旗本の一人、此村大吉が立ち向かうストーリーだった。鶴田は1924年生まれで当時29歳。雑誌の人気投票でも2位以下を大きく突き放してのトップだった。
千秋さんは此村大吉と志をともにする貧乏旗本の一人、座光寺源三郎(田崎潤)の妻役で、端役の一人に過ぎない。そのためもあり、映画の内容はほとんど覚えていないが、忘れられない思い出がある。
セットには鶴田さんと女は自分だけで、周りにしゃべる人はいなかった。周りから「鶴田さんの近くに寄っちゃダメだよ」ってね。ずっと千秋ちゃんのことを見つめていたら口説かれるので、近くに座っちゃダメだよって言うのね。女優さん全員が言われていたんだと思うけど。
広い道場みたいなお座敷のセットで、鶴田さんは端の畳の上に座っていました。私はおかみさんの地味な着物を着て、畳の上には乗らないでストーブの近くに座っていました。
余計なことを言われるから意識しちゃってね。鶴田さんから、本当に視線を感じますよ。見つめられると絶対に口説かれると……だけどいい男だよね。こっちを見ていると思ったけど、目を合わさないようにしていました。沈黙した微妙な雰囲気でした。田崎潤さんはその点で安心な人だけど、セットにはいなかった(笑)。
鶴田さんは無口で、自分からは絶対にしゃべりかけない。たぶん人を見つめるクセがあって、女の方が意識させられて、そこから話が始まるんじゃないですかね。それで誤解されたんじゃないかと思います。
※2 長門裕之と津川雅彦の兄弟は、監督のマキノ雅弘から見ると甥に当たる。津川の名前は映画にクレジットされていないが長門は「飯飼五郎太夫」役で出演している。
結局、その日に台本は届かず、セットで芝居した記憶もないという。「まだ台本が書けていなくて、私の役も登場するかしないか、それすら分かってなかったのかも……。だから一応待たされていたんじゃないかな」と千秋さんはいう。後の1956年『四人の誓い』(松竹・田畠恒男監督)で千秋さんは鶴田と再び共演するが、その時は「ロケが東京のビルの屋上で制服を着ている役でした。賑やかで鶴田さんの視線を意識することはなかったです」と笑いながら語った。
虻蜂座
松竹に移籍して5年目を迎えた1956年5月、千秋さんは虻蜂座の第三回公演に賛助出演する。虻蜂座とは、市村俊幸、千葉信男、小野田勇、矢田茂、キノトール、三木鮎郎、三木のり平、森繁久弥を同人とした演劇集団で、「どうせアブハチとらずに終わるだろう」ということと「アパッチ族のように勇敢に」という意味から命名された。
虻蜂座については書籍でも触れているが、ここではもう少し詳しく書く。
ここの同人たちは、もともとNHK第一ラジオで放送していた『日曜娯楽版』(1947年-1952年放送)の人気コーナー「冗談音楽」で集まっていたメンバーだった。
『日曜娯楽版』は世相や政治への風刺色も強く、人気を集めた一方で批判も多かった。1952年に風刺色を弱めて『ユーモア劇場』と改題したがそれでも再び問題となり、政府の干渉により1954年に打ち切られた※3。
虻蜂座はその1954年11月1日から3日間、昼夜2回の旗揚げ公演を行った。演じられたのはキノトール作の喜劇『スパイの技術』と三木鮎郎構成のショウ『本日怒るべからず』で、高杉妙子と草笛光子が賛助出演した。1955年6月22日から26日にかけては、如月寛多、旭輝子、中原早苗などを賛助に迎えて第2回公演を行った。キノトール作『恋愛の技術』、三木鮎郎構成の『つむじとへその曲りっこ』で、22日から24日は夜のみ、25、26日の土日は昼夜の2回公演であった。これら公演は有楽町にあった東京ヴィデオ・ホールで行われ、いずれも満員の大盛況だった。
千秋さんが参加した第3回は、フランキー堺を同人に迎え、笠置シヅ子や八波むと志を新たに賛助に招いた公演だった。5月25日から29日にかけて、場所はこれまでと同じ東京ヴィデオ・ホールで行われた。
演目はこれまでの形を踏襲して、キノトール作・全3幕の『流行ッ子の技術』と、三木鮎郎構成のTOKYO名物・アブハチ・ショウ『げに青春は』の2部構成だった。
『流行ッ子の技術』は元海軍中将の荒賀勝之進(千葉信男)、その長男の嫁で戦争未亡人の静子(笠置シヅ子)、孫娘のマリ(千秋みつる)ら、荒賀家を中心にした物語である。生きがいを失った勝之進、料亭を切り盛りして家計を支える静子、卓球で世界を制することを夢見るマリたちは、いずれも未来への希望を求めている。そこに様々な来訪者が来て一家を翻弄する。ただ、その来訪者が外国の皇太子・シーカム殿下(フランキー堺)、イエス・キリスト(三木鮎郎)、元帥(市村俊幸)、赤旗の人(八波むと志)など、どこか普通ではない。騒動の末に「流行ッ子の技術」とはどのようなものなのか、というあらすじである。
『げに青春は』は全12景のそれぞれが独立したバラエティショウで、千秋さんは第2景「卒業式」に八波、如月、中原などと一緒に出演している。千秋さんの回想――
虻蜂座の第三回公演プログラムを見ると、「虻蜂族の会」という友の会のようなものを会員募集して、次回公演は11月予定とも書いている。ただ、後に第4回が行われた記録はない。舞台が好評だったことは疑いようがないが、三木のり平や森繁久弥など、すでに人気者だった同人たちのスケジュールを合わせるのは容易ではなく、稽古の時も全て顔が揃うのは午前零時以降だったという。この第3回を最後に、虻蜂座は自然に解散したものと考えられる。
松竹での仕事は、徐々に端役が多くなっていた。10代から20代前半の千秋さんは幼く見えて、実際の年齢よりも若い役柄の方が多いくらいだった。しかし年を重ねるにつれて、実年齢よりも年長の役が多くなり、水商売の女などすれたイメージの役柄が増えていった。千秋さんは松竹での仕事に行き詰まりを感じていた。
虻蜂座で出会った人たちはNHKやテレビ局、ラジオ局で多く仕事をしていて、その繋がりから、東京での仕事を紹介してくれるという人物も現われた。1957年春、千秋さんは松竹との契約更新をせずに、京都から東京に移る。そこで待っていたのは、まだ日本で始まって間もないテレビドラマという世界であった。
※3 『ユーモア劇場』打ち切りについては、『現代世相風俗史年表 1945→2008 増補新版』(河出書房新社)を参考にした。

凡凡ミュージカル
1958年5月18日、京都の南座で新しい劇団が産声をあげた。作曲家の服部良一を中心とした凡凡座という劇団で、本格的なミュージカルをやりたいという服部の念願を実現したものだった。
千秋さんがテレビ業界に移って間もなく、姉・深緑夏代は宝塚歌劇団を退団して、シャンソン歌手に転向、はじめてのリサイタルもすでに経験した頃だった。
服部がこの長年の希望を実行へと動かし始めたのは、公演から2年近く前の話で、深緑さん、笠置シヅ子、宝とも子が「私たちも歌手に生まれたからには、レパートリーの他に何か意欲的なことがしてみたい」と、相談してきたことがきっかけだった。「タダでもやる」という3人の決意に服部も意欲が出て、この3人の個性を生かしたミュージカルができないか考え始めた。
服部は親友の小説家で劇作家でもある中野実に台本を依頼したが、慣れないミュージカルになかなか筆が進まなかった。1958年1月にマスコミ向けに公演の予定を発表したが、その後も完成にはほど遠く、とうとう中野は根を上げて、そこは旧作に音楽を付けることにして、もうひとつの台本は松竹新喜劇で活躍していた友人の渋谷天外(2代目)に頼むことにした。
上方ミュージカル『美しき嘘』(渋谷天外作・演出、服部良一作曲・指揮)、グランドショー『歌と踊りのプレゼント』(凡凡座同人作・演出、服部良一指揮)、ミュージカルコメディ『マダム狂騒曲(ラプソデー)』(中の実作・演出、服部良一作曲・指揮)の三演目が揃い、ようやくこぎ着けた旗揚げ公演だった。
凡凡座の名前の由来は、平凡の「凡」とボンジュールの「ボン」と、関西人の集まりらしく「ぼんぼん」という言葉をかけたものだった。
公演は5月18日から24日までで、昼夜の二回公演だった。発起人の深緑さん、笠置、宝に加えて、服部富子、浜口庫之助、真咲美岐、さらに千秋さんも出演した。そこにOSK日本歌劇団から、秋月恵美子と芦原千津子のスターコンビが『歌と踊りのプレゼント』のみ特別出演として参加した。
プログラムを見ると、松竹の取締役・白井昌夫が挨拶を書き「この関西生まれのミュージカルを温かくお育て下されんことを切にお願い申し上げる次第であります」と結び、服部も「今後も此の仕事に献身的努力を惜しまない者であります」と次回以降の公演にも意欲があるように見える。
1月にマスコミに発表した段階では、秋に東京でも上演する予定だったが、それも含めて2回目以降の公演が行われた記録はない。この京都公演については記事自体も少ないが「出来ばえはさほど讃えられるものではなかった」(『歌劇』1958年6月号)「脚本の古さと舞台の未完成で不入り」(『全京都年鑑』1959年版)「まだまだタレント不足」「演技の基本も知らない歌手たちでミュージカルを作り上げようとしたのは失敗だった」(『週刊サンケイ』1958年6月8日号)など、見る限り不評が並んでいる。
このミュージカルを発案した段階では、「七光り三人娘」としてトリオで歌うこともあった朝丘雪路、東郷たまみ、水谷良重がノーギャラでの出演を買って出て、高英男と浜口庫之助も協力を申し出てメンバーに加わった。しかしいざ蓋を開けてみると、このうちで本公演に参加したのは浜口だけであった。
台本は急ごしらえで、公演まで十分な準備期間もなかった。人気スターのスケジュールを揃えるだけでもひと苦労で、稽古も十分ではなかったのだろう。服部にとっては何もかもが上手くいかない試みだったことが推測される。
服部は後に自叙伝(『僕の音楽人生』)を出版しているが、凡凡ミュージカルについては年譜への記載のみで、本文では特に触れられてもいない。
その時のプログラムが京都歴彩館に所蔵されている。また、千秋さん、深緑さん、真咲美岐の3人が並んだ写真もある。千秋さんは深緑さんと宝塚時代にほとんど共演がなく、退団後も一緒に演技した記憶はないという。ほとんど史料にも残らない公演であったが、姉と共演した珍しい舞台として千秋さんの思い出に残っている。

テレビドラマで出会った名優~平幹二朗、藤山寛美、薄田研二
千秋さんがテレビの世界で仕事を始めた時、録画技術はなく、ドラマであってもほぼ生放送の時代であった。試行錯誤でトラブルも多かったが、熱気に充ちていて、無我夢中で撮影にのぞんでいたという。その黎明期ともいえる時代に、歴史的番組である『私だけが知っている』『事件記者』『ダイヤル110番』といった作品にも、レギュラーではないが初期から出演している。
この頃は短編の単枠ドラマや連続ドラマでも短いクールのものがよく作られていた。千秋さんはそのようなドラマで主演も含めて多く出演し、重宝されていた。千秋さんの回想――
『テレビ映画日本歴史シリーズ 幕末物語 勝海舟編』(毎日テレビ 1959年4月7日~28日 全4回)では平幹二朗と共演した。
藤山寛美には目をかけてもらい、『私の逢った女』(ABCテレビ 1961-1962年)というシリーズもののドラマで相手役を務めた。
ある時に私は病気で布団に寝ている役で、脇に寛美さんと南都雄二さんがいる状況でした。天井からのカメラで、二人とも顔が見えないことを幸いに、私を笑わしにかかるんですね。二人とも一流の喜劇人ですからね。こちらも必死で笑いをこらえました。
厳しいところもあって、関西弁のアクセントでよく注意されましたね。
薄田研二とは映画デビュー作『風にそよぐ葦』で共演し、後年はテレビの時代劇でも一緒に仕事をすることになる。
大名優と認める薄田研二だったが、テレビドラマ撮影での意外な一面も証言に残っている。前述の通り、テレビドラマの草創期は生放送がほとんどだった。VTR導入がされてからも当初は編集技術がなかったために、ミスをすると全てが撮り直しになり、生放送以上の緊張を役者に強いていた。そのような状況での一コマである。
時代劇で良い役だと薄田さんが出てくる、他には三島雅夫さんとか。格式ある俳優さんでしたね。

タイガー劇場「人」
草創期のテレビドラマについては、残念ながら一部の話題作以外、映像はおろか脚本や作品の概要すら失われている。しかし、処分から免れて公共施設に寄贈された一部の台本などが、今も現存されているケースもある。国立国会図書館も2011年に文化庁との間で、放送脚本の収集・保存について連携、協力することを確認し、現在は1980年以前の放送脚本を約5万9千冊収蔵している。
探していると、その中に千秋さんが主演したドラマもひとつ保管されていた。1962年7月20日に放送された、タイガー劇場「人」の第20話『婦人警官』である。
〝タイガー劇場「人」〟とは、タイガー魔法瓶がスポンサーとなり、同年3月6日から11月2日にかけて関西放送で全35回放映されたドラマ枠である。「人間の中にある善意や、心の美しさなどを、平凡な庶民の中に発見してゆこうとする。これがテーマである」(『Teleview』1962年2号 関西テレビ放送)とあり、30分各話完結のスタイルで、脚本、担当ディレクター、出演者ともに毎回交代制という意欲作であった。
舞台は大阪府釜ヶ崎。加藤婦警はある少年を気にかけている。三原宏という子供で、父親は工事現場で機械にわざと親指を巻き込ませて、労災金をせしめようという男で、わずかな金が手に入ると昼間から飲んだくれていた。母・お春は昼間は日雇い、夜は知人の焼き鳥屋で働いているが、生活に精一杯で宏に手をかけることができない。
宏は小学校五年の年齢であったが、学校に通っておらず、加藤は宏を通じて、三原家に介入するようになる。少しずつ加藤に心を開く宏だが、父親の荒んだ生活が宏を素直にさせない。そんな中、三原は焼き鳥屋でお春を口説いていた客に暴行を働いてしまう。三原は留置所送りになるが、出所すると真人間になってもう一度人生をやり直したいという。加藤は三原に就職先と、学校に通えなかった子供達を受け入れる教育機関を紹介する。この出所日は偶然にもお春も自身も忘れていた宏の誕生日で、加藤が用意したケーキで皆、涙ながらに祝う。
キャストは加藤婦警を千秋さん、宏少年役を杉山光宏が演じている。
このような一話完結型のテレビドラマは当時幾多と作られ、生放送か、仮にVTRだとしても高価なフィルムは何回も使い回しされて、映像が保存されることはほとんどなかった。このタイガー劇場「人」もさして話題にならず、運良く脚本が保管されていなければ誰の記憶にも残らず消えていただろう。
この時代、テレビというメディアは消耗品であり、文化として残す視点も芽生えてはいなかった。カメラの感度が悪く、照明を明るくしないといけないために、撮影現場の温度は高く、生放送のためにスタッフもキャストも汗をかきながら走り回った。映画に比べて一段下がった存在に見られがちで、都落ちのようなイメージも持たれていた。
テレビドラマの黎明期は、このような環境の中、無我夢中で新しい世界を作り上げてきた人たち、そして名前も残らない多くの作品により支えられていた。



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