〔写真はシャンパーニュで千秋みつるさんの公演を案内するもの(2021年6月10日撮影)〕
健在の千秋みつるさんに取材を始めたのが2021年1月。そこから出版まで5年余りにわたった取材記録をシリーズ記事としてお伝えします。編集上で割愛されたエピソードも加えて、作品世界をより深く感じていただければ嬉しく思います。
千秋さんとはじめて顔を合わせたのは2021年6月10日、シャンパーニュのライブだった。
その時に何を歌っていたか記憶にないが、エスコート役の男性から悪戯っぽく笑いながらマイクを受け取った姿はよく覚えている。
芸術の感受性がそれほど高くない私は、その歌から何を感じとれば良いのかよく分からなかった。千秋さんから感想を求められても言葉が出ず、歌よりも立ち振る舞いや、初対面の私に対して腕を回して写真におさまる、その心の垣根のなさというか、91歳とは思えない不敵な瑞々しさの方が印象に残った。
千秋さんは現在も、毎月第2木曜にシャンパーニュで歌っている。それとは別に有志たちが企画したコンサートなどで歌うこともある。2025年、2026年は誕生日会が開かれて、私も出席して節目を祝福させてもらった。

また毎年、大阪府豊中市で開かれる『シャンソンコンソール レ・ザンファン』にも彼女は出演を続けている。これは宝塚出身者も含めて、深緑さんの関西地方の教え子が集まって追悼を行うもので、主催者側の熱心な招待もあり、自由にならない身体を押して駆けつけている。
私もこの公演の時には、可能な限り大阪に足を運んでいる。過去には楽屋で関係者に紹介してもらったり、公演後に宿泊先で話を聞かせてもらったりした。自宅とも普段慣れているシャンパーニュとも違う環境は、千秋さんの現状を浮き彫りに見せてくれる貴重な機会だった。
取材を始めた2021年の『シャンソンコンセール レ・ザンファン』は9月28日(豊中市立芸術文化センター、以下毎年同じ)の開催で、終演後にホテルでお話を聞かせてもらった。様々な資料をカバンに詰めて、それを見てもらいながら昔の記憶をたどってもらった。電話で毎週話していたが、顔を合わせて話を聞くのは、それとは違った多くの収穫があった。
この頃の千秋さんは屋外を歩くのに車輪付きのキャリーケースを必要としていたが、足取りはしっかりしていて、他人の助けをほとんど必要としなかった。衰えが目立つようになったのは2023年後半あたりからで、歩くのがおぼつかなくなっただけでなく、記憶は不明瞭になり、耳も遠くなった。電話していても質問した内容と全く関係のない答えが返ってくることが多くなった。
2023年4月には宇都宮市に引っ越していて、そこから1年の間は電話だけでなく、自宅を訪れてよく接していた。知人を連れて行ったのもこの時期である。取材や交流を通じて千秋さんのことをよく知ることができたと同時に、少しずつ衰えていくのを身近で見て、1人で行動させることに不安を感じることも多くなっていた。
2024年(5月23日)の『レ・ザンファン』はそのような状況下で迎えた日だった。千秋さんは一泊してから帰る予定だったので、切符の手配やホテルから新幹線の座席までの案内をするつもりで同じホテルを予約した。
当日は私の取材が千秋さんだけでなく、姉の深緑さんに及んでいたこともあり、楽屋で関係者に紹介してくれた。
宝塚の後輩でもある風さやかさんや萬あきらさんが挨拶に来た。風さんはラジオの収録用にレコーダーを持って来て、一緒に「すみれの花咲く頃」を歌った。萬さんが来ると「萬ちゃーん!」と友達が来たようだった。萬さんも千秋さんのことを「みっちゃん」と呼んでいた。
しかし何よりも千秋さんの表情が変わったのがシャンソン歌手の川島弘さんが来訪した時だった。
川島さんは深緑さんの初期の教え子で、この頃、90歳を越えてなお現役の歌手として活動していた(2026年3月逝去)。この日はコンサートには出演せず、知人の顔を見て帰る予定だったが、その前に千秋さんの控え室を訪れたのだった。

川島さんが両手に杖をつき部屋に入ってきた時、千秋さんの顔は驚きで満ちて、走って駆け寄ろうとする勢いだった。お互いが健在であることを喜び、千秋さんは川島さんの丸まった背中から、手を肩に回して体を寄せていた。
「会えて良かった。また、一緒に何かやりましょうね」
普段のステージでは「今日が最後」と繰り返す千秋さんが、珍しく未来への約束を交わしていた。2人の雰囲気が周囲を寄せ付けないほどで、挨拶にきて待っていた萬さんが察して1度、出直したくらいだった。
楽屋での千秋さんは普段の穏やかな様子とは少し違った。どこか張り詰めた空気があって、誰も回りにいなくなると、姉の教え子たちの立ち振る舞いの至らなさをいくつか漏らした。
「まあ、いちいち言わないですけどね」
挨拶がないとか、言葉使いとかそのような話ではなかった。小さな気配りとか思いやりとか、そのようなことだった。姉の深緑さんについて、その指導中の厳しさをよく語る千秋さんだったが、このような姿はやはり姉妹なのだと感じさせた。

千秋さんが歌うのは最後で、リハーサルも他の歌手が終えてからになる。進行の人がそろそろステージに向かうように教えてくれた。舞台の袖では衣裳を着た歌手たちが慌ただしく行き来して、ステージでは風さやかさんが「歌い続けて」を歌っていた。
千秋さんのリハーサルでは中央に椅子が一脚用意されて、もたれるように座った。私は袖のまま見つめていたが、その姿に不思議と心を動かされるのを覚えた。
自然体で、何もかも受け入れているようで、どこか崇高なようにも思えた。はじめて歌を聴いた時の問いに、3年過ぎて答えを得た気持ちだった。言葉で表現すると、本質から外れてしまうような気がして、以来、千秋さんの歌は感じたことをそのまま受け取るようにしている。
この日はリハーサルの時の体験が思い出深く、本番の時のことはほとんど覚えていない。

翌朝、千秋さんと私はホテルを出発した。新大阪駅から5分ほどの距離で、千秋さんはキャリーバッグを杖代わりに、もう一方の手を私の腕に回しての歩行だった。
普段、強気でなんでも「自分でできる」と主張する千秋さんだったが、このような場面になるとタクシーを呼んでくれという。しかし実際のところ、タクシーを呼んでも降りた場所から歩かなくてはならず、ほとんど意味がないように思えたし、ワンメーターの距離で呼ぶのも気が引けた。説き伏せて何とか歩くように促した。
若者なら5分もかからない道のりだったが、途中座れるところがあると休み、20分ほどはかかったと思う。キャリーの車輪が点字ブロックに引っ掛かって、それを上手く対処することができない。道も全く分からず、行きの時はどうしたのかと疑問に思った。それを尋ねても覚えていなかった。
新大阪の駅構内に入っても、新幹線乗り場までは歩いていかなくてはいけない。構内は座る場所がなく、千秋さんにとっては不便だった。前日にルートを下見していたが、道を間違えてしまい、エスカレーターに乗ることになった。歩幅を合わせて、大きなキャリーバッグと千秋さんのタイミングを合わせるのは、ちょっとした冒険だった。ずっと後で「あの時、歩かされたわよね」とさりげなく言われて、この時の思い出が千秋さんにとっても印象に残るものだったのだと知った。
余裕を持って出てきたが、それでも新幹線の発車時刻は気になった。そんな気持ちはどこ吹く風で、千秋さんは立ち止まって色々な風景を見つめては独り言をつぶやいていた。見たものをゆっくりであったが理解して咀嚼しているようだった。
新幹線の座席に座ってもらうと、キャリーバッグなど荷物の配置が良いか確認した。切符を渡して、東北新幹線が自由席であることを再度伝えた。東京での乗り換えにどのくらい時間を要するか分からなかったためである。
列車が東京に向かって出発するのをみて、大切な仕事が終わったことを感じた。この頃の千秋さんはまだ、1人でなんとか東京駅の乗り換えを行えて、宇都宮駅で馴染みのタクシーを使って家まで戻ることができていた。
この2ヵ月後の2024年7月11日、千秋さんは救急車で搬送されて、2週間ほど入院することになる。



コメントを残す